故デヴィッド・ボウイに捧ぐ〜伝説のスターの歩んだ栄光と影の軌跡〜

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January 10 2016 – David Bowie died peacefully today surrounded by his family after a courageous 18 month battle with…

Posted by David Bowie on 2016年1月10日

2016年1月10日、一人のビッグ・スターがまたこの世から去って行きました。
彼の名は、デヴィッド・ボウイ

「エスクァイア誌の選ぶ歴史上最も洗練された10人のミュージシャン」において第1位。
「ローリング・ストーン誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第23位。
「ローリング・ストーン誌の選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第39位。
「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第28位。
2000年の「20世紀で最も影響力のあるアーティスト」にも選ばれました。

彼は多くの人々に音楽で魔法をかけ、そして希望を与えました。それに対して人々は彼をリスペクトし、そして愛しました。

デヴィッド・ボウイって死ぬんだ」と思った人も多いとおもいます。彼は「生きる伝説」でした。
そんな彼が残した作品と共に彼を追悼したいとおもいます。

デヴィッド・ボウイの人生

1947年1月8日、イギリスのロンドン南部ブリクストンの労働者階級の家で生を受けました。
子供の頃から、音楽好きの父親が買ってくるフランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジャーズ、ファッツ・ドミノ、プラターズ、リトル・リチャード、エルヴィス・プレスリーなどの、アメリカのポピュラー・ロック音楽に親しみました。
幼少時代にジャックケルアックのビートニクス小説「路上」と出会い芸術に興味を示しはじめ、さらに義理の兄弟であるテリー・バーンズの影響でモダンジャズに関心を持つようになり、特にチャールズ・ミンガスやジョン・コルトレーンにあこがれるようになったといいます。
それらをきっかけに歌を作ったり、絵を書いたりということを始めるようになります。

しかし、その後母親とお兄さんが精神を病んでしまいます。お兄さんに至っては自殺をしてしまいます。このことはボウイの人生に大きな影をもたらすことになりました。

また、1962年に学校でガールフレンドを巡る喧嘩を起こし、その際に彼の友人のジョージ・アンダーウッドが左目を殴ったために、4か月の入院と数度にわたる手術をおこないました。片方の眼球だけ瞳孔が開いておりほぼ失明状態で片目だけ色が違います。彼の魅力的なオッドアイはこの事が原因です。

悲しい幼少期を送ったボウイでしたが、本格的に音楽活動を始めます。

実はデビッドボウイのメジャーデビューはビートルズと同時期だったようです。
1964年6月5日に「ディヴィー・ジョーンズ・アンド・ザ・キング・ビーズ」名義で最初のシングル「リザ・ジェーン」を発表。これが事実上のデビューシングルです。1968年までモッズや初期ビートルズ路線のスタイルで優秀かつ独創的な楽曲作品を次々と発表しますがなかなか売れずに長い間低迷期を経験します。
 
なかなか世間から注目される事がなく、ボウイは数々のバンドを渡り歩きます。あまりにも売れない時期が続き、ボウイはヨガや瞑想などの東洋思想にはまります。その際、ボウイは「このまま作品が売れないのならば、いっそのこと僧侶になろう」と思い立ちチベットの原理仏教の修業を経て僧侶の資格を得ます。デヴィッド・ボウイ名義上のデビューアルバム『デヴィッド・ボウイ』の製作中にチベット仏教に傾倒し、チベット難民救済活動を行うチベット・ソサエティに参加しました。

その後、1967年6月、デビューアルバム『デヴィッド・ボウイ』を発表。同年9月に短編映画『イメージ』(1968年)への出演が決定し、その撮影の際にリンゼイ・ケンプと出会っています。

David Bowie

そこでボウイは前衛パントマイムの開祖リンゼイ・ケンプのワークショップでダンスとパントマイムを習います。
ボウイはロンドン・ダンスセンサーでのケンプのダンスクラスに習い、ケンプの下でコンメディア・デッラルテなどから学んだアバンギャルドとパントマイムによってドラマティックな表現を身につけ、そこから世界に対して見せつける自身のペルソナの制作に熱中しました。当時今一つあか抜けていないボウイの殻をリンゼイは見事に開花させてみせます。

そして、成長したボウイは1969年、前年に公開された映画『2001年宇宙の旅』をモチーフにして、アルバム『スペイス・オディティ』を制作。アポロ11号の月面着陸に合わせて、その直前にシングル「スペイス・オディティ」をリリース。

なんと全英チャート5位、全米チャート15位まで上がり、見事に人気ミュージシャンの仲間入りを果たしたのです。

ジギー・スターダストとして

1972年、コンセプト・アルバム『ジギー・スターダスト』をリリース。コンセプトに基づいて架空のロックスター「ジギー・スターダスト」を名乗りました。これが大ヒットしました。ここでT-Rex、ロキシーミュージック等とともに世界中にデビッドボウイの名は知れ渡るようになります。

そのバックバンドである「スパイダーズ・フロム・マーズ」を従え、世界を股に掛けた1年半もの長いツアーを組みました。世界ツアーへと変貌していきました。アメリカツアーの最中に録音された『アラジン・セイン』は、架空のロックスター「ジギー・スターダスト」を演じるボウイというよりは、架空のロックスター「ジギー・スターダスト」そのもののアルバムになりました。世界ツアーは大成功を治め、日本への初来日も果たします。

その後もフォークロック・サイケデリック風のコンセプトアルバムを生み出すのですが「一発屋」と言われ低迷期を過ごします。そして、1973年7月3日のイギリスでの最終公演を最後に、ボウイはこの架空のロックスター「ジギー・スターダスト」を永遠に葬りました。

Space Oddity

アルバム『ジギー・スターダスト』はミステリアスなキャラクター率いるバンドのロックオペラで、黙示録や両性具有、ロックスターをボヘミア調のドラマで一つにしている作品です。

アメリカ進出

1974年、心機一転、原点回帰して、アルバムを制作することになりました。作詞の際にウィリアム・バロウズが一躍有名にした「カット・アップ」の手法を導入したコンセプト・アルバム『ダイアモンド・ドッグス』を発表しました。ジョージ・オーウェルのSF小説『1984年』をモチーフに作られたアルバムでしたが、オーウェルの遺族から正式な許可が下りず、『1984年』という言葉を大々的に使用してはならない、『1984年』の舞台化も許さない、という制約で縛られることに。1974年6月に始めた北米ツアーでは、ロック史上空前の巨大な舞台セットを導入し、絶賛されましたが、相次ぐ機材のトラブル、ボウイの体調不良などで、2ヶ月程度でツアーは中断することになりました。

1976年、自らの主演映画の内容に影響を受け、また長年の薬物使用とその中毒で精神面での疲労が頂点に達していたボウイは、自らのアイデンティティを見直す作業を余儀なくされていました。その間にフィラデルフィア・ソウルにハマったボウイは「いかに白人が黒人ミュージックに近づけるか」というテーマを掲げ、音楽の方向性を大きく変えます。

自らを「プラスティック・ソウル」と呼び、グラムロック時代の面影が全く感じられないほどの変貌を成し遂げました。

Fame

この曲はジョン・レノン、カルロス・アルマーとの共作で全米1位を獲得しました。

ベルリン三部作

ドイツでナチズムを意識したステージ構成のライブをしたり、ヒトラーを擁護する発言をしたりして激しいバッシングを受け、「ジギー・スターダスト」以上の危険人物とみなされることになったボウイ。
薬物更生も兼ねてベルリンに移住し、ひっそりと生活することにしました。

その際に1977年から1979年にかけてブライアン・イーノとのコラボレーション作品として『ロウ』、『英雄夢語り』、『ロジャー』の3つの実験的なアルバムを発表しました。のちに「ベルリン三部作」と呼ばれています。ロンドンパンク/ニューウェーブ全盛期の中で、あえてプロトパンク/オールド・ウェーブを前面に出した。

Heroes

この曲はそんなベルリン三部作の一つですが、時代の経過とともにどんどん評価されている曲でもあります。

「Heroes」は、ベルリンの壁の下で落ち合ったカップルをテーマにした曲。男女が出会うその日の間だけ「ヒーローになれる」と高らかに歌い上げたこの歌は、2012年のロンドンオリンピック開会式でイギリス選手団の入場曲にも使われました。ドイツ外務省は、ボウイの死去に際し、「ベルリンの壁の崩壊に力を貸してくれてありがとう」とのコメントを発表したようです。ボウイがベルリンの壁崩壊前の1987年に西ベルリンでコンサートを開き、この曲を歌ってくれたことへの感謝の意を表明したといいます。かつてバッシングされていたことも今となってはいい思い出です。

レッツダンス

1980年、再びアメリカに戻り、ニューウェーブを前面に出した、RCA時代最後のアルバム『スケアリー・モンスターズ』を発表しました。初ヒット曲の「Space Oddity」の登場人物・トム少佐を再び登場させ、「Ashes to ashes」で彼のその後と自分を重ね合わせて歌い、ここでボウイはカルト・スターとしての「デヴィッド・ボウイ」と決別することとなったのです。

1983年、ナイルロジャースプロデュースにより、一度は「消えた」と思われたボウイが再び奇跡の大復活します。そうです、『レッツダンス』です。空前の大ヒットでした。

Let’s dance

このアルバムで全英アルバムチャート1位、ビルボード最高4位を記録。また、イギリス、アメリカ、カナダ、オランダなどでゴールドディスクを獲得しました。「レッツダンス」「チャイナガール」「モダンラブ」など名曲ぞろいです。

さらに1983年の『シリアス・ムーンライトツアー』では新しいファンをも取り込んでの大規模なワールドツアーを大成功させ、カルトヒーローからメジャーロックスターの座につくことになりました。

「知る人ぞ知る」といった色白く不健康なカルトスターとしての立ち位置から見事な変貌を遂げ、ボウイはここでようやく「健康的な」メインストリームのポップスターとしてのキャラを押し出すことに成功します。

その後

1970年、アンジーと結婚し、10年後に離婚していたボウイでしたが、めでたく1992年にモデルのイマン・アブデュルマジドと歳の差婚を果たします。イマンはあのナオミキャンベルも憧れていたというスーパーモデルです。

あれだけいろいろ遊んできたといわれるボウイもこの運命的な出会いには相当な覚悟を決めて再婚に踏み切ったという数々の証言が物語っています。ボウイが60代、イマンが50代になっても二人がラブラブにデートしているところを目撃されているとか。

そんな幸せな生活を送りながらも、数々の作品を世に出し続けたボウイ。

しかし、2000年代中頃から徐々に創作意欲が削られていったボウイ。徐々に「引退説」が濃厚になりました。

ボウイの伝記を手掛けた作家、ポール・トリンカも「よほど劇的な作品を届けることがない限り、もう一線には戻らないだろう」と、ボウイは実質的にほぼ引退したという見解を述べてました。

そんな中でも2013年1月8日、ボウイの66歳となる誕生日に突如、新曲「ホエア・アー・ウィー・ナウ?」と10年ぶりとなる新作『ザ・ネクスト・デイ』を3月に発売すると発表。先行シングルの「ホエア・アー・ウィー・ナウ?」は全世界119か国のiTunes Storeにて一斉配信開始され、リリースから24時間で27か国のiTunesチャート1位を獲得し、まだまだ健在っぷりをアピール。

しかし、この後から彼を病魔が蝕んでいたようです。

2016年1月8日のボウイの69歳の誕生日に28枚目のアルバムとなる新作『★』(ブラックスター)を発売。

そしてわずか二日後、その偉大なビッグスターは静かにこの世を去って行きました。

あまりにも突然の死でした。
彼はそれをわかっていて最後のアルバムを出したのかもしれないです。

日本でも2017年に大回顧展が日本初上陸する予定でした。残念です。

著名人から届いたメッセージ


「雨が降る朝、とても悲しい知らせで目が覚めた。デヴィッドは偉大なスターで、彼と共に過ごした瞬間は僕の宝物だ。彼の音楽は英国音楽史上で重要な役割を果たし、彼が世界中の人達に大きな影響を与えたことを誇らしく思っている。
彼の家族にお悔やみ申し上げます。一緒に笑いを共にした日々をこれからもずっと忘れません。彼の星は空の上で永遠に輝き続けることだろう。」



「私はショックを受けた… 私のヒーローだった」



「ローリング ・ ストーンズはショックを受け、深く私たちの親愛なる友人の David Bowie の死の知らせを聞いて悲しみに包まれた。素晴らしい、親切な男であること、だけでなく、彼は特別なアーティストであり、まちがいなく唯一無二の存在だった。」



「お疲れ様、David Bowie。スターであり、英雄である彼をを追悼します。これ以上言うことはないが、このことを理解するのに時間がかかります。 非常に悲しい。QUEEN ブライアン・メイ」


「David Bowie、時代の中で、最も賢く、そして最も関心を集めた華のある男だった。あまりにも早すぎる。皆、彼のことを寂しがるにちがいない。QUEEN ロジャー・テイラー」

クイーンといえばこの曲でコラボしていました。

Under Pressure

名曲で数々のアーティストに影響を与えた曲でもあります。



「David Bowieは本当に本当に最高だった。」


俳優としてのデヴィッド・ボウイ

ミュージシャンとして輝き続けたボウイでしたが俳優としても高く評価されていました。

代表作には次のような作品があります。

「ハンガー」(1983年)
「戦場のメリークリスマス」(1983年)
「ラビリンス」(1986年)
「最後の誘惑」(1988年)
「ニューヨーク恋泥棒」(1991年)
「ツインピークス~ローラパーマーの最期の7日間」(1992年)
「バスキア」(1996年)
「ノミ・ソング」(2003年)
「プレステージ」(2006年)

彼の演技はとっても不思議な魅力があります。本当に才能に溢れた人でした。これを機に彼の作品を見直してみるのもいいかもしれないです。

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