サマーソニックの行方
今年のサマーソニックは、2日間で前年比5千人増の約11万人が来場した。
閉幕から既に一週間が経っているにも関らず、未だあの非日常感に片足を突っ込んでいる。今年は例年にも増して混沌を極めていた。オープニング・アクトとヘッドライナーの違いはあれど、テンプラキッズとマリリン・マンソンが同じステージに立っていたわけである。日本的なポップカルチャーにおける新星と、稀代のダークヒーローの邂逅だ。何だか感慨深い。今年に限った話ではなく、ジャンルや国籍を問わず、それらを自由に横断することでサマソニは地位を確立してきた。売れ線だ、ミーハーだと罵られながらも、ある意味で「ブレることなく」独自のフェスを作り上げていった。それが最も鮮やかな形で結実したのが今年だったように思う。ディアンジェロ&ザ・ヴァンガードが伝説を作り、ポーター・ロビンソンやマデオンがEDMの新たな金字塔を打ち立て、ねごとがJ-Rockの存在感を放った。ザップやタキシードのいぶし銀の輝きも忘れてはならない。これだけ多くの価値観がぶつかり合えば、嫌でも新たな出会いがある。それまではコテコテのハードロックしか聴かなかった人が、あゆみくりかまきに開眼する可能性を孕んでいるのは、世界広しと言えども日本のサマーソニックぐらいのものだ。その意味では時代の最先端を行っている。売れ線という言葉で片付けるには惜しい。これについては色々と思うところがあるので、後ほど語ろう。
そんなサマソニの特徴が現れるのは、アーティストのブッキングだけではない。会場に仕掛けられたあらゆるアトラクションを見て、改めてこのイベントが持つ多様性に驚かされた。一度ゲートをくぐれば、心躍る高揚感から逃れることはできない。ソニック・ステージとレインボウ・ステージの間のスペースは、この世の娯楽を結集させたような有り様である。何が飛び出すか分からないびっくり箱のようなSIDE-SHOW、カジノさながらの雰囲気を味わえるソニックベガスに、キッズクラブ(日本3大フェスティバルの中では最も質が高い)まで完備している。その他多くの特設ブースがあり、数メートル歩けば違う表情を見せてくれるのだ。爆音で「Tremor」をかける、まるで「プチ・ウルトラ」のような様相を呈しているステージでは、思わず足を止めてしまった。舞台の上で踊るお姉さんもキレイである。
屋外に至っては、風景を楽しむだけでも充足感を得られるだろう。露出度の高いファッションに身を包み、開放感に溢れる人々。いかにもメインステージ然としているスタジアム。身を刺すような灼熱の太陽。今更ながら、これぞフェス!道行く人の浮かれきった顔を見ていると、危うくその人を好きになりそうだ。陰険な自分の性格が遥か彼方へ飛んでゆくようである(とは言え、実際に人様に話しかける勇気はない)。そして、マリン・ステージ近辺と言えばやはりコレだ。「出れんの!?サマソニ!?」である。今年はやたらお客さんがいるなぁ、なんて思っていると、ステージに立っていたのはP.O.Pだった。公言通り、お客さんにビールを振る舞う男前っぷりを見せつけていたが、彼らのお財布事情を案じるものである。やはり「Watch me」に泣かされた。
わずか3日間(ソニックマニア含む)で、あらゆる感情が胸の内を駆け巡る。
で、「売れ線」の話に戻りたい。音楽への趣味・嗜好が千差万別に多様化している昨今、各々のジャンルが先細りしてゆく感は否めない。そんな現状に対応しきれなくなったマスメディアは、すっかり機能を失った。かつての意味で語られた「売れ線」は、もはや死語になりつつあるのではないだろうか。サマーソニックは、そんな危機感をいち早く察知していた。その懐の広さで以って、音楽文化の裾野を広げることに貢献してきたのである。これについては、開催地が様々なマーケットが交錯する都市のすぐ近く、という点が大いに関係しているだろう。サマソニはこのベクトルで進化しているのである。常に「音楽の現在」なのだ。そのために賞賛と批判を一身に受け止めているのである。冒頭で述べた混沌とは、そんな私たちの愛憎そのものなのだ。このスタンスさえ変わらなければ、きっといつの日も愛すべき姿で迎えてくれるだろう。