【ライブレポート】二人の才女が出会うとき。青葉市子&フロー・モリッシー @晴れたら空に豆まいて

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ポエマー全開のタイトルを付けてしまった。我ながら中々に恥ずかしい。人を詩人の心境に誘い込むほど、この日のステージには劇的なものを感じた。会場が「晴れたら空に豆まいて」というのも良かった。ライブハウスでありながら、フロアは畳張り。インテリアとして番傘なども置いてあり、極めて和風な雰囲気だ。我々日本人には慣れ親しんだはずの光景だが、どこか異世界的な要素も含んでいる。そこでの二人の出会いは、静かで優しくて、ちょっぴりメランコリックだった。

青葉市子

筆者が彼女を知ったのは今から随分も前だが、実はライブは今回が初めてである。ワンマンの「剃刀乙女 洟垂れよ 放たれよ」では予定が合わず、haruka nakamuraとの共同プロジェクト「流星」ではチケット争奪戦に負け、今年のりんご音楽祭にも行けなかった。もはや天に見捨てられたかと思った矢先、今回のフロー・モリッシーとの唄会である。「今までの不運はこの時のためにあったのか!」と、小躍りしたものだ。

誤解を恐れずに言う。私には、なぜ彼女が音楽という表現手段を選んだのかが判然としていなかった。決して彼女の音楽に対して何か文句があるわけではない。彼女には、シンガー・ソングライターではない別の選択肢があったはずなのだ。それは小説家かもしれないし、あるいは映像作家かもしれない。類稀なストーリーテリング、緻密な世界観、圧倒的な言葉のセンス。これだけ文学の方面で秀でたものがあれば、必ずしも音楽でなくとも才能を発揮できたことだろう。そんなふうに思っていた。

もちろん、それはそれで事実である。だが、現時点では彼女が最も輝くのは音楽なのだ。実際に自分の肌で体感するまで分からなかったのが大変口惜しい。彼女にとって、音楽は息をするのと同じくらい自然なことなのだ。自らが爪弾くギターのサウンドに乗せて、言葉や物語を紡いでゆく。そのままの意味で「弾き語る」。奇をてらっている意識もないから嫌味もない。ひたすら自由に演奏するスタイルは、まさにジャズである。文学の枠を超えて、完璧なまでに音楽であった。以下の映像は当日のものではないが、少しでも世界観が伝わればと思う。

 

フロー・モリッシー

青葉市子が言葉そのものを大切にするアーティストだとすれば、フロー・モリッシーは語感に重きを置いているシンガーだ。

少々緊張した様子で姿を見せた彼女は、同時に高いモチベーションも備えているようだった。2曲目の“Show Me”あたりまでは力みが見えたが、それも熱意の表れだろう。真摯な態度で曲を聴くオーディエンスに、やはり真摯な態度で応えようとしていた。“Pages Of Gold”を歌う頃には、硬さもほぐれ、持ち前の透明感がすっかり戻ってきたようだった。

何というか、フローは日本の気候がよく似合うアーティストだと思う。会場の和風テイストも妙にはまっていた。か細いけれど、しっかり芯の通ったヴォーカル。そしてどこか雨をにおわせるメロディ。歌詞は平易な英語で綴られているが、彼女の曲は、言葉の響きの潜在能力を最大限引き出しているようである。全体的に湿度が高い。“Pages Of Gold”はラブソングであるが、それを超えて複眼的な表現になっているように思う。翌々日の朝霧JAMは、雨の中のステージだったそうだが、さぞかし絵になっていただろう。

そんな語感の美しさが最もよく表れていたのは、「恋はみずいろ」のカヴァーだ。フランス語の艶かしい響きもあいまって、雰囲気がぐっと蠱惑的になった。しかし、フローが歌うと色っぽさだけではなく、情念のようなエネルギーも加味される。これは20歳という若さによるものなのか、彼女が生まれながらにして備えているものなのか・・・。とにかく独特な世界観であった。アンコールには“Don’t Explain”(ビリー・ホリデイ)のカヴァーをアカペラ(!)で披露してくれたが、彼女の魅力は少しも失われることはなかった。

体感時間は二人合わせて1時間程度だったが、実にその倍以上の時間が過ぎていた。何とも不思議な空間に身を置いていた気分である。夢だったのかと思うほど、この日のライブは現実とは離れた場所にあった。実に素敵な夢だった。

Montreux Jazz Festival Japan 2015
2015年10月9日(金)
会場:東京・代官山 晴れたら空に豆まいて

<関連リンク>
Montreux Jazz Festival Japan 2015
青葉市子 オフィシャル・サイト
フロー・モリッシー レーベル・サイト